村田吉弘さんに聞く京都おせち 日本料理アカデミー村田理事長が語るおせちと和食文化のこれから

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和食文化を世界に発信し、「和食」のユネスコ無形文化遺産登録にも尽力された日本料理アカデミー理事長の村田吉弘さん。料亭「菊乃井」においても、若い職人に向けて和食を通じた日本人の美意識や行事の大切さを説いています。今回は、今までもそしてこれからも日本のお正月に欠かせないおせちや、そのおせちにも深く関わる和食文化をテーマにじっくりとお話を伺いました。

 

村田吉弘(むらた・よしひろ)

料亭「菊乃井」3代目。NPO法人日本料理アカデミー理事長。1951年、京都市生まれ。立命館大学卒業後に日本料理の世界に入り、現在は本店含め全店舗を統括。2012年「現代の名工」「京都府産業功労者」、2013年「京都府文化功労賞」、2014年「地域文化功労者(芸術文化)」、2017年「文化庁長官表彰」を受賞。2018年「文化功労者」、「黄綬褒章」を受章。

 

 

御所への憧れが生んだ「京のおせち」

――「おせち」の発祥はいつ頃なのでしょうか。

今の形に近くなったのは江戸の末期だと思います。みんな暮れから忙しくしてはるから、せめて正月くらいは女性が休めるように、三が日は料理をつくらんでもええように、と。昔は今より気温が低かったから、縁側に置いておけば日持ちしますからね。

そもそも京都では正月の料理をおせちと言わず、「お重」とか「重詰め」と言っていました。「節会」の料理はみんな「おせち」。節会は一年中あるから、京都人はそれを大切にして、御所でしていることを真似て文化を継承してきたわけです。

――御所の真似をする庶民の想像からおせちが生まれた、と。

そう、想像ですね。節会の料理なら重箱には詰めないはずですから。当時の庶民は、鎮守の祭りやら豊作祝いの酒盛りやらをするときに、煮しめやおかずを入れ子の箱に詰めてそれぞれ持ち寄って、飲んだり食べたりしていました。それで、御所の元日節会の話を小耳にはさみ、「正月はあれのええやつをつくったらいいんやな」と想像して(笑)、入れ子の箱を塗り、蒔絵を描いて、おせちにしたのでしょう。ですから、お重は京都発信だと思います。

――なるほど、非常に興味深いお話です。

御所の方々と同じものを食べていたら、庶民も無事息災でいられるやろうと。正月料理だと、雑煮も似たような由来です。京都の雑煮には頭芋か子芋が入っていますが、あれは畑の神さん。で、白い丸餅はご先祖の魂です。畑の神さんとご先祖の魂を一緒にいただいて、年神様をご接待するという行事なんです。だから、京都人にしてみると、雑煮の餅を焼くのはご法度。「ご先祖の魂を焼いたらあかんがな」ということでしょうね(笑)。それと、食べるときの箸は両口の柳箸。柳は絶対に折れませんから。両口なのは、片方は自分たちで、もう片方は過去のご先祖さんに使ってもらうためで、ともにいただくという意味があります。

――「菊乃井」では、いつごろからおせちをつくっていますか。

自分が27歳、28歳やったから、もう40年も前ですね。じつは、百貨店で初めておせちを売ったんは菊乃井なんです。当時は、うちの若い子らが除夜の鐘を聞きながら皿洗いをしていて、正月も3日から店を開けるので田舎にも帰れないから、どうしたものかと思いまして。おせちはもともと家でつくるものでしたけど、「それを早めにつくって売ったらどうやろう?」ということで、最初はお重を10台から置かせてもらいました。京都高島屋さんには、「売れへんかったら全部返してくれてええわ」と言ったのですが、おかげさまですぐに完売しました。そのあと、病院で年を越す方やら単身赴任の方やら、ひとりで越年する方にもおせちを食べてほしいと思い、ひとり用のおせちもつくるようになりました。

――近年は百貨店でおせちを買うのが普通になってきています。

そうですね、おせちは年末商戦の目玉になっています。それにうちの店も、今は毎年12月24日で閉めて、それからおせちづくりにかかって、30日に納めて、31日から1月6日までは休みをとるようになって。働き方改革を完璧にやっています(笑)。

便利になると文化が衰退していく

――反面、おせちをつくる家庭は京都でも減っているのでしょうか。

だから、便利になると文化がなくなっていくのでしょうね。「うちの黒豆はおばあさんに教わった炊き方や」と言っておせちを食べていたのが、「去年の料理屋のおせちの方が美味しかったな」という話になってきて(笑)。餅つきにしても、京都は28日が餅つきと決まっていましたが、今はみんな忙しくなってもうできませんけどね。その文化を担っていくのが料理屋だと思っています。

――京都のおせちで必ず入る料理を教えてください。

家庭によって違いますが、必ず入るのは数の子、たたき牛蒡、ごまめの祝い三種。あとは、昆布寿司、鮎の煮びたし、砧巻き。まあ、めでたいもんしか入れませんね。伊達巻き、栗きんとんは京都にはなかったものです。あとは京都ならではの詰め方で、一段に二個ずつ縦に同じものを入れる。そうすると、一つつまんでも見栄えが変わらずに保てます。

――重詰めのやり方に何か決まりごとはありますか。

京料理は、茶懐石、有職料理、精進料理、おばんざいがミックスされているわけですが、お重もその流れを汲んでいます。だから、一の重は口取りといって、祝い三種などの酒のつまみが入っています。二の重は焼き物、三の重は煮しめ系統が普通ですね。

ただ、写真を見てもらえばわかるように、これは料理屋でしかつくられへん「ご馳走おせち」です。昔みたいに、ただおせちが食べられれば満足できたという時代から、だんだん贅沢になってきたということでしょう。

――今の日本には、家庭のおせちとご馳走おせちの両方があるというわけですね。

そうですね。今後はご馳走おせちが主流になっていくでしょう。しかし、家庭でつくる普通のおせちがなくなるかというたらそうでもなく、共存していくのだと思います。

――こうしてお話を伺っていると、やっぱり正月はおせちを食べたくなりますね。

ちなみに、うちでは三が日は雑煮を食べます。和食が文化遺産登録をされたときに、元日の午前中に、北は北海道から南は沖縄まで国民全員が雑煮を食べることも、和食文化の特異性として評価されました。

 

守り育てる食文化

――今後は、おせちを含めた和食文化をどのように伝えていきたいですか。

日本人はこの20年の間に、米の消費量を半分にして、肉の消費量は5倍にしました。これほどまで自分たちの食べているものをひっくり返した国は世界に類を見ません。

また,アジア人は膵臓のインスリンの排出量が西洋人の三分の二しかないので、同じように肉中心の食事をすれば、糖尿病の発症率も高まります。

自分の体に合った食事をすることが大切で、そこを改善していくのは、子どもの頃からの「食育」しかないと思っています。

――日本料理アカデミーは、食育にも力を入れられていますね。

子どもの頃からご飯、味噌汁、煮付けを食べていたら、将来は酒を飲むわけです。そうすれば国内における米や酒の消費量も増えるし、和食を世界に輸出していこうとする機運も高まる。その一環で、おせちも楽しんでもらえるとうれしいですね。

 

インタビューを終えて

京のおせち、そして和食文化について、立て板に水のごとく話してくれた村田さん。その博学さに驚かされつつ、サステナブルな社会を実現するためには、和食文化を継承していくことが大切であるとつくづく感じさせられました。

村田さんは、「文化を守っていくというのは、自分たちの食べる物を見直して、元々の食事に戻すこと」とおっしゃっています。

一方で,新しもの好きな京都人は,伝統を守りながらも革新し続けることで,まったく新しい文化を生み出してきました。今ではすっかり定番となったおせちも、かつては京都の民衆が御所を敬う心から生まれた,新たな文化だったのかもしれません。

令和初のおせちは、食材ひとつひとつに込められた願い,見栄えを重んじた京都ならではの盛り付けといった,先人たちが育んできた多様な文化に思いを馳せながら味わってみてはいかがでしょうか。